繋ぎ飼われたその果てに-11

 春休みが始まろうとしている。その証拠に、私の初めてを奪い尽くしたことで湯尾君の生存活動が本格的に始まった。スマートフォンを扱う時間が格段と長くなったんだ。メールはもちろん、電話も。スピーカーから漏れる甲高い声を耳に拾うたびに芯が冷える。
 トドメはこれ。
「例の人がそろそろ会いたいって、都合のいい日考えといてね。あと帰り明日になるから夜の戸締まり気をつけて」
 帰りは明日。つまり、朝。彼に溶かされた思考が瞬時に氷結する。"例の人"のことなんか他人事のように頭の隅に追いやって、相手は前と同じ人だろうかとだけ考えを巡らす。そうするうちに私は身体を動かし、家事を始めた。じっとしていたら変なことまでマイナスに考えて気が狂いそうだった。だって夜になれば嫌でも考えさせられる。久々に一人で夜が明けるのを待たなければいけないから。そうして憂鬱な夜を迎えることにグルグルしていた私を待っていたのは、一層苦を要する展開だった。
 夕方になり、異様に外が騒がしくなったと思ったら。
「たーらーいまー!」
 聞き覚えのある甲高い声と共に玄関が破かれる音がした。
 えっ。
 反射的に立ち上がり、扉を見やる。ドタバタと忙しい足音と、もー、と疲れ気味な湯尾君の声。
「あーもー疲れたぞー! お布団!」
 バンと開かれた扉から飛び出してきたのは明るい茶髪が印象的な若い女性と彼女の肩を担ぐ湯尾君だった。見覚えはない。彼女はするりと湯尾君の腕をとき、外に干してシーツを変えたばかりの布団へ一目散にダイブした。私は呆然と自分に与えられたスペースに立ち、それを見届ける。
「あ゛ーせめて上着は脱いでよ。煙草の臭いつくだろー」
「えっへへーふかふかだー」
「ほら、いいこだから」
 湯尾君は手に持っていた買い物袋を床に置き、彼女の上着を脱がした。慣れた手つきだ。
「ユオっちのえっちー」
 されるがままになる彼女。日常の一コマなのだと見せつけられる。
「ったく、今日は一段と強烈だな。またクビになったの?」
「知らなーい。ちょっと本気出しただけで、か弱き乙女を追い出すボッタクリ店なんか知らなーい」
「禁止なのに欲出して本番するお前が悪い」
 湯尾君は舌打ちしながら脱がせた上着を顔に近づけて眉間に皺を寄せた。
「洗濯機に入れておこうか」
 早くもうとうとし始めている彼女を気遣って小声で声をかける。
「え、あぁ。ごめん、ありがとう」
 ようやく湯尾君は私を見た。苦い意味で豊かだった表情が平坦になる。私はすぐに受け取った上着を洗濯機に入れに行った。手に持つだけで漂ってくる煙草の香り。喫煙者のそれだ。登下校時に遭遇するサラリーマンと同じ臭い。大人の印。煙草は税がかかる。これは、それなりの金銭的な余裕が無いと身に纏えないもの。ほんのりと妬みが芽吹く。
「これ以上本番するなら俺も切るよ。病気になりたくないし」
 廊下にいても聞こえてくる声は低く、湯尾君が本気で言っていることは容易に想像できた。私は部屋から見えない位置で床に腰を下ろした。
「しっつれいな! ちゃんとゴムしてるもん。それにそんなこと言える立場なの?」
「俺は他にいくらでもツテあるんで」
「私にはユオっちしかいないのに」
「なら、なおさら本番するなよ」
「誰のためだと思ってるのー」
「自分のためでしょ。俺は通常業務で稼いだ金しかいらない」
「このーヒモー」
「そのヒモを飼ってるのはだーれだ」
 一旦、場が静かになる。はぁ、とため息が床を伝ってやってきた。
「のどか、いいよ。来て」 
 恐る恐る部屋へ向かう。彼女は布団に沈みこんでいた。眠っているようだ。
 せっかく手入れしたのに。
「朝帰りじゃなかったんだ」
 これなら一人で孤独に耐える方がまだマシだった。
「ごめん。いきなり"ホテルは飽きた"とか言って聞かなくて。この人の部屋俺より凄いから泊まるにも泊まれないんだよね」
 彼女の我侭に逆らうことは初めから頭の中には無いのだと、すぐに分かった。ぷすぷすと体の中で音がした。臓物に火が着き、燻っている。この感覚は身に覚えがある。母がパートから帰ってきたあとの玄関に広がるあれに気づいたときと全く同じ。どうしてこのタイミングなのかはあまり考えたくない。
「夕飯は食べたの?」
 気にしてないよ、という顔を作って尋ねる。
「いや、まだ。でも惣菜買ってきたからそれ食べよう」
 当然、彼女も含めてだろう。私は分かりやすい嘘を吐いた。
「うん、分かった」
「よし。じゃあそれまでちょっと休憩。俺もくたくた」
 そう言って、湯尾君は敷かれた布団の脇に寝転がった。とても自然に閉ざされる目蓋。それから私は二人が起きるまでこれといって大きな汚れが見当たらないキッチン周りを大掃除した。
 仮眠が終わるころには深めのボウル皿にご飯と惣菜を一緒くたによそって用意する。ちょっとした当てつけだったけれど、二人は特に気にすることなく遠足でビニールシートを引いてお弁当を食べるように膝の上に皿を置いて食べ始めた。私もなんとなくそれに合わせる。彼女は食事中も相変わらずきゃっきゃと甲高い声を出して夕飯の感想を湯尾君に話していた。湯尾君が笑みを交えながら返答するとまた嬉しそうにきゃっきゃと笑う。何をしても生きてるのが楽しい! といった風にはしゃぐ彼女。恐らくその源泉が湯尾君であることは間違いない。
 この私の仲間外れ感は終わることはなかった。夕食後、私が一番に風呂に入ったあと、二人は一緒に入浴し、リビングまで聞こえる声でお互いの髪をドライヤーで乾かしながら話で盛り上がっていた。そして。
「あ、そうだ。忘れるとこだった。のどかちゃんのためにこれ買ってきたの! これ人型になってて着たまま歩けるんだよ、凄くない?」
 就寝直前。二人で布団に入る気満々な様子に私はどうしようかと途方に暮れていたら、彼女は湯尾君が持ち帰ってきた買い物袋の中から新品の寝袋を出して私に差し出してきた。彼女が来訪してから初めての会話だった。
「ありがとうございます」
 半分だけ問題が解消される。もうあと半分はこの寝袋をどこに広げるか、だ。けれどその問題もすぐに解決した。
「もう3月だし廊下でもこれ一つで大丈夫だと思うよー」
 語尾に音符を着けて提案する彼女はただの悪魔にしか見えなかった。もっと細かくカテゴライズするなら淫魔だ。それもお茶目な第一印象を裏返す、計算高さを目の当たりにさせられる。純粋に牽制なんだろう。今日の湯尾君は私一人のものだという。私からしたらそれもそうだろうとしか思えなかったけれど、湯尾君がそれを甘受していることの方がうんと堪えた。
「恐れいります」
 抑揚のない声で言うと、一瞬彼女はつまらなそうな顔をした。密かな仕返しは成功だ。しかし、今この時の圧倒的な勝者は彼女だと断言する。私のほうが何倍もつまらない。
 廊下は私の日々の仕事の甲斐あって、横になるのに全く抵抗感が生まれなかった。皮肉だ。下ろしたての寝袋に身体を埋めると新品のビニール特有のツンとした臭いに包まれる。果たして眠れるのだろうかと憂鬱になりかける。さらに追い詰められることも知らずに。
「あんっ」
 リビングと廊下を隔てる扉から嬌声が漏れ出る。私はギョッとして仰向けにしていた身体を横向けて頭を上げた。扉の方を見据える。照明は落とされていたから暗闇しか目に映らない。
 二人でお風呂に入った時点で薄々嫌な予感はしていた。でも、彼女はともかく湯尾君は最低限の気配りをしてくれるものだと思い込んでいた。
そっか。
 湯尾君は私への良心よりお金を選ぶんだ。そうか、それもそうか。そのために嫌そうにしていたくせに我慢して彼女を家に連れてきたんだ。頭で理解できても、一度大きく跳ね上がった心臓が起こす異様な動悸は治まらない。
「あ、あっ。あー」
 甘いだけじゃない動物的な生臭さまみれのそれは、サーッと私の体温を奪っていく。寝袋に入っていなければ、この場は私のカチカチと震える音が木霊しただろう。
「んっあっあっあっ」
 悦びの波は止まることなくこちらに押し寄せてくる。せめてもの抵抗に窮屈な中で両耳を手で塞ごうとした時だった。
「ほら、いい子だから声我慢して」
 動かしていた腕が停止する。その合成甘味料のように嫌にベタつくひたすらに甘い響きに、自然と涙が零れた。そんなのただの逆効果でしかないと分かっていたから。
「ん、んーっ」
 ほんの少しだけ音量が小さくなる。けれど自発的なものではない。恐らく、手で口を塞がれている。私に良さを教えてくれたあの指が彼女の唇に触れているのだろう。考えれば考えるほど涙は止まらなかった。そして音が小さくなるにつれ、徐々にハッキリと耳につきだす律動は激しかった。執拗と感じられるほどに。
「んー。だめ……あ、あーっ」
 嬌声が止む。ホッとしたのもつかの間、再びゆるりと律動が流れ始めた。このあと彼女は4回"だめ"と叫び、私は眠れず、定期的に目頭を拭いながら、身体に灯った火を持て余した。
 二人より早く起きようとは決意していたけれど、一睡もできなくなるとは思わなかった。にわかに外が明るくなりかけた頃、じっとりと汗ばんだ寝袋から抜け出して静かに脱衣所に向かう。鏡の横にある棚の一番下にあるはずのない基礎化粧品の瓶が置いてあった。どれもこれも少女趣味なピンク色。苦手意識を抱きつつ、顔を洗ったあと魔が差してそれに手をつけた。やたらとろりとした手触りで肌につけるとスルリと伸びた。化粧水でこれだ。乳液、美容液まで着けたら顔が重たくなりそうだった。この上からさらに化粧を重ねないといけないなんて大人も大変だ。少しだけ未来を億劫に思う。ほとんどの女性が公衆の面前に晒せるのは人工的な顔だけ。
 廊下に戻って私は寝袋の上で体操座りをした。まだ私はお呼びじゃない。二人の間でいつピロートークが行われるのか私は知らない。夜あれだけ激しかっただけに余韻に浸る余裕があるとは思えなかった。座っているうちに坐骨が痛くなってきて、ぽす、と腕と足を組んだまま横に倒れる。
 気づいたときには腕が少し痺れていた。身じろぎする際に薄く目を開いたらリビングの方から一層濃い影が指していた。バッと跳ね起きる。
「あ、ごめんごめん。起こす気はなかったんだよ?」
 ひそひそと声が流れる。音もなく扉を閉め、近づいてきた影は私の真横に腰を下ろした。
「今日はごめんねー。こっちで寝させちゃって。久々だったからつい」
 にぱっと幼子のような笑顔。この笑顔で何人の男性を落としてきたんだろうか。
「でも部屋綺麗になっててビックリしたー。のどかちゃんのおかげなんでしょ? ありがとねー」
 わざとだ、とすぐに分かった。彼女は敵意を隠すのが上手い。何が"でも"なんだろう。
「いえ、別に。私ちょっと潔癖入ってるから」
 安易に優越感を与えたくなかった。有りもしない設定を口走る。
「へーそうなんだ。ユオっちいい子拾ったなー」
 話が終わり、静けさが戻る。このまま湯尾君が起きて来てくれたらいいのに。そんな細やかな望みを押し潰すように彼女は声を出した。
「ねぇ、ユオっちの話どこまで聴いてるの?」
「どこまでって何がですか?」
 色んな女の人と楽しいことをしてお金を貰っていることはとうに分かっている。それを彼女も察しているものだと思っていたから、答えあぐねてしまう。
「んーお爺ちゃんのためにお金稼いでるっていうのは?」
 口を閉ざすしかなかった。
 それは、知らない。
 微かに、本当に微かに彼女の口角が上がる。
「ユオっち健気だよねー。身寄りなくしたときにおいでって言ってくれた遠縁のお爺ちゃんのためにこんな生活始めたんだよ。遠縁ってもほぼ他人だよ? いくら植物状態だからって他人のためにプライドとか全部捨てちゃってさ。もとは真面目な性格のくせに。ほんと健気」
 気を良くしたらしい。彼女は縷縷語った。まるで歌っているみたいに。
「そう……ですね」
 視線が下がる。どこを見たらいいのか、分からなくなる。
「あ、そろそろユオっち起きたかな」
 立ち上がった彼女の足取りは軽く、扉を開けて"ユオっち"と呼ぶ声はどこか満たされたものがあった。
 その日の朝食は当然のように私一人で作った。湯尾君はひっきりなしに彼女にくっつかれて身動きが出来ない状態だった。その光景は昼まで続き、私が家事と勉強で時間を潰していたら14時になってやっと彼女は帰っていった。15時から仕事らしい。
「のどか、今日はほんとごめん。こういうことは二度とないから」
 ベランダの窓を背もたれに体育座りで勉強していると、彼女を見送ってきた湯尾君が私の前に立ち止まった。
 話を聴けば本命以外で飼い主が家まで上がり込んできたのは今回が初めてとのことだ。私は、別に気にしてないよ、とホラを吹き、心中漂う霧を吹き飛ばすように笑った。すると、そっと頬に手を添えられる。
「ん」
 私が身動ぎしないのを確かめてから塞がれる唇。私は持っていた参考書を床に置き、立てていた両膝を伸ばした。障害がなくなり、いっそう強く押し当てられる。しゃがみこんだ湯尾君が角度を変えてくるうちに私は床に倒れていた。今まで受けてきたどの口づけよりも熱心に湯尾君は重ねてきたんだ。口内に唾液が溢れる。一呼吸置きたくてほんの少し体を引いたら、自然と剥がれていく彼。一先ず嚥下すると、クスリと笑われる。
「のどか」
 誤魔化すように呼ばれ、見つめ返す。
「ありがとう」
 そう言って湯尾君は自分の腕でしっかりとわたしを包んだ。それだけだった。
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