繋ぎ飼われたその果てに-07

 あの日以降湯尾君は何かとスマートフォンを眺める時間が長くなった。夕方出かける回数も増えた。お姉さん方のお相手だろうか。考えて少し憂鬱になる。
 学校から帰宅後、コロコロ、床拭きシート、雑巾での水拭きの順で掃除をしていたら、遅れて帰ってきた湯尾君が香水の香りを纏って帰ってきた。手には物が入ったビニール袋。
「のどか海老アレルギーとか持ってる?」
 第一声がこれ。ただいま、おかえり、は他所で済ましてきたようだ。アレルギーは持ってないと伝えて、湯尾君が持って帰ってきたビニール袋の中身がお姉さん手作りの天ぷらだと教えてもらうと、一層モヤモヤが身体の中に広がった。私だって、レシピ覚えればそれくらい。
 湯尾君の陽気な喋りを当たり障りなく流しながら食事を済ませ風呂へ。彼が、なんかねちっこいね、と漏らすくらい長い時間をかけて頭と身体を洗ってやった。赤く残った痕なんてありきたりなものが無い相変わらず綺麗な身体をしていたから、丁寧に手を使って身体を撫でながら泡を洗い流した。練習をこなし、浴室から退散するべく湯尾君に背を向ける。
「のどか」
 呼び止められて振り向いたけれど、彼は正面を向いたままで。
「今のは独学?」
 どうやら手で洗い流したのを気にしているらしい。少し心が浮く。
「さぁ」
 去り際、小さく返して私はリビングに戻った。それから少しして上がってきた湯尾君とバトンタッチしてシャワーを浴びる。先ほどの呼び止めに、何か起こるかなと期待をしてしまったけれど、何事も無く時は過ぎて就寝前、布団の中でようやく会話らしい会話がはじまった。
「のどか」
「なに」
「キスされそうになったときどう思った?」
「だから……」
 仰向けていた身体を湯尾君のいる左側へ向けて、いっぱいいっぱいで分からなかった、と答えようとしたら。
「ん」
 唇で唇を塞がれた。意外とやわらかな感触に生々しさを覚え、突然のことに目を見開く。きめ細やかな肌、すっと通った鼻筋、控えめなまつ毛ときて、相手が目蓋を落としているのに気づき、それに習って私も同じようにして5秒。ふわり、唇が離れると同時に抱き寄せられる。
 無味だった。レモンとか桃とかちゃんとした味は無い。強いて言うなら、湯尾君の味。風呂あがりの石鹸の香りと唇の薄い皮の混ざった湯尾君の。ドキドキした。
「初めて、あいつに盗られるかと思って焦ったー……」
 耳に湯尾君の息が掛かり、ずくずくと下腹部が疼いた。
 ぎゅう、と身体に巻き付く腕の力が強くなる。湯尾君の心音がやや激しいのを感じる。
 私の中では初キスの相手とっくに湯尾君なのに、何を今更。ちょっと可笑しい。
 でも、なんで。
「なんで盗られちゃだめなの」
 "練習してみなよ"と提案したのは湯尾君自身だ。これもまた可笑しい。
 湯尾君は腕を緩めて、頭を枕の上に戻した。
「んー。世間一般の遊び人はキス=OK=ヤレるってことになってるから。まさか1回目であそこまで進むとは思わなかった。のどかもそうでしょ」
 確かに、トントン拍子に進みすぎて戸惑った。けど、それ以上に。
 初めては俺じゃないと嫌だ、って言ってくれないんだ。
 彼から一線を引かれたことにトーンダウンする。
 分かってる。私にとって湯尾君は単なるコーチで湯尾君からしたら私は生徒、ただそれだけ。
「タダでやるの嫌じゃん、一度許したらOK娘ってとられて、いい性欲処理機になるのがオチだよ。その辺のあしらい方覚えてないと地獄に真っ逆さま」
「ならそのあしらい方を」
 教えてという声も形のいい唇に吸い込まれる。押し当てられるだけのキス。しかしそれは私の余裕を奪うには充分密度があった。
「は……ぁ……」
 最初のそれより長めで呼吸が辛くなる。唇が剥がれたとき、私の息は少し上がっていた。湯尾君がくすり、と笑う。
「ベタだなー。のどか、鼻で息しないと」
 ぴと、と鼻先同士が触れて、また息を忘れる。鼻呼吸? 無理だ。だって緊張する。湯尾君の唇、男の子にしてはなめらかすぎるんだ。これもまたお姉さんの影響だろうかと疑念が沸き立ち、私は衝動的に湯尾君のパジャマの襟をつかみ引き寄せた。なめらかな下唇を食むように力を入れる。彼の反応は早かった。まだ足りないのに途中で唇を引いたと思えば、私がしたことをやり返してきた。主導権を奪われる。
「はっ、ん……」
 今度は触れさせたまま角度を変えて吸い付くようなキス。唇と唇の狭間でリップ音が鳴る。脳裏をよぎるは、街で見かけたあの口づけ。
「あのキスして」
 伝わるかは分からなかった。彼自身が覚えているかも保障のない、一分にも満たない情景。けれど、彼は私を仰向けにさせて頭の横に両腕をつき、ついばむように何度もキスしてくれた。恋人同士だからこそできる気軽でナチュラルなキスを。
 あぁ、覚えていてくれた。
 ぽつりと思い、胸に熱が走る。
「これで足りるの?」
「足りちゃだめなの?」
 正直もうくたくただ。口づけするたびに息を止めていたからちょっと辛い。酸欠で濡れた瞳を返すと、湯尾君はふっと笑って最後に額へ唇を注いだ。
「初めてにしては上出来じゃん」
 そして、ころりと私の左側に戻る。
「お陰様で」
 肩で息をしながら、湯尾君の動きに下がった掛け布団を喉元まで引き上げる。身体が熱い。
「キスって。それだけでも結構気持ちいいんだね」
「そこに気づくとは。のどかやっぱ素質あるよ、売りやって俺の面倒みない?」
 最終的に出てきた台詞がこれだ。どれだけヒモ根性据わっているんだろう。可笑しい。自然と肩が揺れる。
「だから、私まだ壊れたくないの」
 高校を卒業するまでは。援助交際で止めておく。これはもう決意してしまったこと。
「じゃあ俺のために壊れてよ」
 それを言っていいのは壊れて面倒みてくれる立場の人間。逆に面倒をみさせようとする人がする発言じゃない。私の人生背負う気ないくせに、そう大それたことを平然と言える心持ちが羨ましい。
「考えとく」
 私も相応の無責任さで答えた。すると、ぷはっと隣で湯尾君が吹き出す。
「あー将来が楽しみだなー」
 放たれた棒読みは私の眠気をどこかへ飛ばしてくれて、湯尾君の寝息が聞こえてきてもなお、そうできたらどれだけいいだろう、と考えさせた。
 この夜から私たちは馬鹿みたいに口づけを交わすようになった。特訓という名目で。朝はおはよう、昼は何かにつけて、夜はおやすみ。湯尾君との口づけは何時まで経っても慣れないし、飽きない。その辺のバカップルも胸焼けするくらい何度も何度も私たちは特訓した。
「そこ置いといて。私洗っとく」
「ありがと」
 夕食後、後片付けのときに何気ない会話をして。そっと上から降ってくる。冷えたお茶を飲んだばかりだからか、いつもより低めの体温。荒療治のおかげでなんとか鼻呼吸はできるようになっていた。少し熱が物足りなく感じたけど、夜には上がる。大人しく受けていたら、いつの間にか腰に腕がまわっていた。
「んっ」
 強く当てられた唇は湿り気を帯びていて、私の胸をきつく縛りつける。そして名残惜しそうに離れていった。
「のどか」
「な、に」
  できるようになっても、湯尾君みたいに器用じゃないからまだ口づけのあとは息が上がる。
「もうすぐ春休みだね」
「う、うん」
 湯尾君が何を言おうとしているのか予想がつかず、戸惑う。それでも、なんとなく甘い期待をしてしまうのは私の悪い癖だろうか。それを察したのかどうかは分からない。彼は一度唇を引き結び、低い声で言った。
「俺にとって稼ぎ時なんだ。これから」
 ドクンと心臓が縮小する。冷水を浴びせられたように身体に纏っていた熱が下がっていく。
「だからそれまでにのどかの初めて全部貰いたいんだけど」
「なんで」
 湯尾君にとって稼ぎ時ということと私の特訓を急ぐことが繋がるんだろうか。
「のどかもいい加減少しずつ稼ぎたいでしょ。良さそうな相手探しといたからちょっとずつ実践重ねよ」
「探すって」
「調べたら比較的紳士的な人が集まる掲示板があったんだ。そこで俺がのどかに都合の良い相手厳選してみた」
 女性の意思を尊重するという規約がある、なんともうさんくさい裏掲示板。簡単な会員登録が必要で、湯尾君は私に成り代わり女性会員と偽って利用しているらしい。
「そんな、急に言われても。それに掲示板は一度失敗してるし」
「急ではないでしょ、のどかの目的は最初からそれなんだし。本番してお金が欲しいのは伝えてある。会って三回まではご飯だけってのも。それ以降は自分で決めていい。だから、覚悟決めといてね」
 考える時間がほしいけど、春休みまでもう少しだ。
「なんか、意味分かんない」
「何が?」
「最近ずっとぴったりしてたから、突然突き放されると抵抗感しか」
「そう? 俺としては今までと変わらないつもりなんだけど。それに突き放してるわけじゃない。言ったろ、のどかの初めては俺が全部貰うから」
 じくじくと下腹部が疼く。言葉にならない当惑に私はすでに犯されていた。
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