繋ぎ飼われたその果てに-03

 家の物を片付けていく中でもの悲しいことは無かった。家にはもうろくな物が残っていなかった。誕生日に買ってもらった玩具のピアノ、"のどかがお嫁さんになったときにあげるね"と約束してくれていたパールのネックレス、初めてもらったバイト代でプレゼントした安物のイヤリング、全て跡形もなく。改めてこの失踪劇が計画的であることを見せつけられる。私は自棄になって、湯尾君に教えてもらった便利屋を介して手数料有りのリサイクル業者に頼み、トラックに詰めるもの全部片っ端から売ってやった。一緒に笑いながら見ていたテレビ、お楽しみの夕飯を並べていたテーブル、私が幼い頃にシールをペタペタ貼った冷蔵庫、何もかもを。思い出と引き換えに手にした端金は生活費に消える程度。私は残していた生物を除く食料と飲料水、学校生活用具とお気に入りの洋服2セットを修学旅行用のリュックに詰めて、湯尾君の住むアパートを訪れた。
「いらっしゃい、て大荷物だね」
「主に食料だけどね」
 ゆっくりと背負っていたリュックを床に置く。
「お、マジで? それは助かる。見てもいい?」
「うん」
 お麩に吸い寄せられる鯉みたくリュックにたかる湯尾君。まるで宝箱をみつけたかのように笑顔だ。
「うっわ」
 ケラケラと愉快な笑い声。
「米持ってきたの? 重かったっしょ。これは助かる、ありがと」
「いや、厄介になるのは私だし」
「逆に申し訳なくなるくらいだよ、さっそくなんだけどさ」
 湯尾君がひらひらと手を振って私をリビングへ連れて行く。そこには先日見た通りの散らかった風景が広がっていた。
「これ掃除してもらってもいいかな? じゃないとのどかが暮らすスペースない」
「あ、うん」
 この程度で申し訳なく思う必要はないのに。特別掃除に苦手意識を抱いているのだろうか。私は道具を借りて床を綺麗にし、整理整頓を済ませて持ってきた物を置かせてもらった。といってもクローゼットに制服を、キッチンとリビングの堺にできた空間に学校生活用具一式が入ったリュックを、キッチンと冷蔵庫に食料を収めただけ。それだけなのに、うわーなんか生活してるって感じ! と無邪気に喜ぶ湯尾君は遠足前日の小学生みたいだった。
「思ったんだけどさ」
 移住準備をはじめたときから抱えていた疑問。
「寝るときって」
 言いかけた台詞にすかさず声が被さる。
「布団一つしかないから」
 一緒に決まってるでしょ? としたり顔が私を覗きこむ。
「だよね」
 薄々感づいていたものの、いざとなると小恥ずかしい。このぎこちなさが顔に出たらしく湯尾君はニマニマと口元を緩ませた。
「のどかのミッションは何と何だったでしょう?」
「男に慣れることと悦ばせることを覚える」
「はい、正解。愚問だったね」
 そうか、今日。いや、もう今から準備運動ははじまっているんだ。少しずつ実感がわいてくる。
「他に済ませておくことは」
「んー無いんじゃない?」
「えっと、なら……」
 これからのことを考えてつい無言になってしまう。だって、仕方ないじゃないか。未知の世界なんだから。
「とりあえず、こっからだね」
 そうしみじみ言った湯尾君はナチュラルに私の後ろに回って、両手で胴に触れた。ゆっくりと、かと思えば小刻みなタッチで触られて、とうとう本番がはじまったんだと深呼吸をする。
「のどかー」
 せっかく覚悟を決めたのに気の抜けた声で名前を呼ばれる。心外だ。
「な、なに」
「ここ笑うとこなんだけど」
「え?」
「だから、お腹こちょぐられたら普通笑うじゃん。それとも根っからのマグロ?」
「マグロ?」
「っだー!」
 やってられん! と湯尾君が両手を上げる。私は全く意味が分からずに振り向いた。すると、悪戯を注意する小学校教師さながらに語気荒く私の名を叫ぶ湯尾君。それにはい、と神経反射で返事をする。
「女は笑顔。んな真顔でいられて楽しい男がいるかよ。あのなぁSMのクールビューティ系の女王様だって冷笑するんだぞ、笑うんだぞー」
 もぎゅ、と両頬を軽く握られながら押されるままに後退する。部屋の壁に背中がつく格好になった。
「それとも何されてると思ったの」
 なにって。目と鼻の先で訊かれて、緊張が走る。
「……前戯?」
「はい不正解。そこは恥ずかしそうに"……っち?"って聞こえるようで聞こえないくらいの音量で答えるの。のどかってさ、もしかしなくても成績良いでしょ、こないだの学期末も余裕で平均点超えとかしてんでしょ」
 肯定すると、不機嫌そうな表情を向けられる。
「また不正解。"そんなことない"って謙遜。これは長い道のりになりそうだ」
 とほほ、と手で頭を抱えた湯尾君はその場に座り込んだ。一時ゆらゆらと前後に頭を揺らしてから、すい、と私のスカートをつかんできた。
「わっ」
 慌てて悪戯な手を抑える。あっさりとスカートは開放された。
「うーん今のは及第点。"きゃっ"だとなお良し。下着は合格。歳相応で可愛らしい」
 そのまま立っているとまたスカートの中を覗かれそうだったから、私も腰を下ろした。スカートを折って体操座りをする。今度は床に項垂れる湯尾君。
「そこは正座で太ももアピりなよ……」
 痺れるのが嫌なんだけどな、と思いながらも習っている最中なので言うとおりにしてみる。
「あのさ。のどか、本当に援交する気でいるの?」
「そうだけど」
「もっとずる賢くならないとキツイよ? 純粋無垢な小学生の女の子が大人に連れて行かれた結果ほとんどが強姦プラスアルファで殺人な世の中だよ。そんなんじゃ金むしり取るどころか命狩られる。てか俺よりド天然じゃん」
 湯尾君はごろんと横になっていた身体を仰向け、ため息を一つ吐いた。疲れたように目蓋を閉ざす。
「だからオネガイしたんだけど」
 放り投げられた手に自分のそれを重ねて彼の顔を覗きこむ。魔が差して、このままキスしてみようかと髪をかきあげ、静かに距離を縮めていった。
「はい、ストップ」
 顔と顔の間に大きく開いた掌が差し込まれた。
「キスすりゃいいってもんじゃないよ。それが利くのは童貞だけ」
 童貞じゃないんだ、とは思わなかった。あんな噂の持ち主だ。これで童貞だったら説得力がない。
 開いた手が私の顔をおさえてそのまま屈めた身体を起こす形になる。
 でもしちゃったよ。
 高鳴りを悟られないように呼吸を深くする。
 掌に、キス。
 生まれて初めて赤の他人に唇を当てた。喋ったらこんなことでと呆れられそうだから言わない。けれど、確かに私の初めてを湯尾君は奪った。
「ま、でも」
 微笑まじりの呟き。
「俺もしそうになったけどね、今。無防備っていうか自暴自棄なの良いよ」
「ありがとう」
「あ、罰点。無言で照れなきゃ。あと、しそうになったくらいで満足しちゃだめ。させなきゃ。ま、頑張ったね。よく出来ました」
 よしよしと掌が私の頭を撫でる。降ってきた温もりを懐かしいと感じた。覚えていると思った。そうしたら、止まらなくなった。
「……ねぇ」
「ん?」
「もっと、褒めて?」
 筋張った首筋に腕を回す。
 何年ぶりだろう。人に褒めてもらうのは。人にしっかり頭を撫でてもらうのは。
「うん。偉い偉い」
 湯尾君は何も訊かずに腕が疲れるまでずっと撫でてくれた。
inserted by FC2 system